2017年9月30日土曜日

「筋ほぐし」の心地よさ

本日は下関で「筋ほぐし」の指導をしてきました。

20170930 下関集中講座

「やわこ」や「フォームローラー」を使った基本的なテクニックです。

きちんと意味を理解してやると、驚きの効果が期待できます。

20170930 下関集中講座

参加してくれた某塾生の感想です。

安部先生の下関WSに参加してまいりました。
本日のテーマは、「アナトミートレイン(筋筋膜経線)と筋ほぐし」。
最近の安部先生のWSは座学たっぷりな印象だったのですが、今日は実技満載でございました😳
足裏から、身体の前に後ろに全身を。
道具を使った筋ほぐしは以前教わった時より、より深化していました😳大胸筋や頸部、足の甲などなど、おもしろかったです😃全身に走っている筋膜のラインを、実感しました。盛り沢山の内容に、最後はヘトヘトになりましたが、気持ちよかったです。
みんなのリクエストで、ちょっとだけ化粧筆の使い方のレッスンもあり、モデルになった自分は、お顔までほぐしていただきました。こちらも気持ちよかった!


某参加者の感想

本日は『姿勢と呼吸と動きのワークショップ』に参加しました。
内容は
・アナトミー・トレイン(筋筋膜経線)
・筋ほぐし
頭の先から足の先までつながっていることを、
頭の理解と身体の体験にて学びました。
非常勉強になったのは、
体を軟らかくすることと、柔らかくなる
は似ていて、まるで異なることです。
ただ単に関節や筋肉を軟らかくすることは安定性も筋出力の低下して危険。
結果として柔らかくなるのは、安全であり機能改善につながる。
筋ほぐしも同様で、
筋肉がほぐれるのは、ボヤーっとしたリラクゼーションでほぐれるのではなく、
正しい練習の結果、リラクゼーションがおとずれ、筋肉がほぐれる、ということを理解しました。
正しい練習の結果ほぐれた筋肉は、強くしなやか。心地よいです。
自分の体でさえ知らないことだらけ。しらないのであれば、想像はできません。
無知なまま状態を求めることに力を入れることより、
おとずれることに耳をすます、身体に聴いていくというアプローチが必要だと感じました。
再現できるように練習です!


私、守備範囲360度を目指しております(笑)。

10月8日(日)の薬院校集中講座も、御参加お待ちしております。

2017年9月29日金曜日

身体操作の究極の帰結は愛である~完成された健康な人間の精神というのがどういうものなのかを知らなければならない

leopold busquet

おはようございます。

昨日の大阪からの帰路で、「身体操作の究極の帰結は『愛』」って思いました。


これを読んでいて、これからの安部塾の身体操作の方向性が見えてきました。












愛するということ新訳版 エーリッヒ・フロム


身体操作は生体力学ですから、限界があります。

ナルシシズムを身体操作だけで克服することは、残念ながらできません。

むしろ、ナルシシズムをこじらせて深刻化させてしまうと思います。

完成された健康な人間の精神というものがどういうものなのかを、学ぶ必要があります。


「生命の時間」を大切にして生きていかないといけないと思います。

そのためには、受け身にならずに愛を与える人でいる選択が必要です。

悩んでいる自分に陶酔せずに、解決して行動していく必要があります。

身体操作の究極の帰結である『愛』。

『愛』をテーマに、今後の身体操作指導を考えていきます。

2017年9月28日木曜日

各講座の御案内~神戸で「やさしい人と愛するということ」の解説をいたします。

9月29日(金)の薬院校特別講座「ニーディング」は、あと数名参加可能です。

参加できそうな方は、FBかリンク先の専用フォームから申し込みください。


9月30日(土)の下関集中講座は、アナトミートレインの解説です。

筋筋膜経線のつながりを感じながらの「筋ほぐし」やります。

Anatomy trains


10月28日(土)の神戸集中講座は「やさしい人と愛するということ」の解説をします。

教本です。

やさしい人 加藤諦三

表面的にはやさしそうに見えるのに、じつはやさしくない人。

「愛している」と強調するのに、自己中心的な要求ばかりする人。

ほんとうのやさしさとは何か?

やさしくなれないのはどうしてなのか?

やさしい人をどうやって見つければいいのか?


安部塾的神経解剖のお話をからめて、解説します。


いま流行りのマインドフルネス。

いま現在において起こっている内面的な経験および外的な経験に注意を向ける心理的過程。

いまこの瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れること。

意図的に、評価や判断とは無縁に、注意を払うこと。


安部塾では、瞑想によってではなく、ナルシシズムの克服によってマインドフルネスの状態を目指します。

ナルシシズム(自己陶酔・うぬぼれ)の対極にあるのがマインドフルネスだからです。

ナルシシズムの問題をそのままにしての瞑想は、自我(エゴ)の肥大を招きがちです。

自我(エゴ)を肥大化させると、ナルシシズムがコントロールできなくなります。


「愛」によって、「やさしい人」になることによって、いまここに生きていきましょう。


参考サイト 

→ 「瞑想」で生じるデメリット「魔境」について科学的な調査が始まる

→ 実は、瞑想には危険もいっぱいある


フロム先生とアドラー先生のお話も。













神戸集中講座の案内は、後日いたします。

信頼関係が築けていないと、間違いをわからせることはできません。

間違いを分からせるには、親しみのある話し合いをすればよい。
大切なのは、それができる信頼関係を築くことだ。
アルフレッド・アドラー

嫌いな人に間違いを指摘されても、間違いを認めることはできません。

先に敵意が立ち上がるからです。

好きな人に間違いを指摘されると、感謝とともに光の速さで間違いを認めることができます。

そこに好意があるからです。

間違いを指摘されて認めることができないとしたら、相手との間に信頼関係がないということです。

こちらが間違いを指摘する立場の場合も、好かれていないことにはお話になりません。

親子間であれば尚更です。

依存的な支配服従関係においては、話し合いが成立しません。

なので、命令による強制が主になります。

結果は、更なる不信感の増大です。

「親に向かって!」

「どうしてわかってくれないの!」

信頼できないからです。

嫌われているのです。

やさしくない=冷たい人だから。

自己陶酔(うぬぼれ)している人・自己蔑視している人に、話し合いはできません。

相手に関心を持っていないからです。

自分が注目されること・褒められることにしか関心がない人は、話し合いができません。

間違いを指摘されと、いちいち傷いてしまいます。

傷つくのは、ナルシシズムです。

信頼関係を築くためには、相手を自分の思い通りに動かそうとしないことが基本となります。

操作しようとしたり、支配しようとしたら、そこでコミュニケーションは終了してしまいます。

親しみのある話し合いが成立するかどうかで、信頼関係が築けているかどうかがわかります。

今日は、大阪で集中講座です。

小話で、この記事について語ります。


2017年9月27日水曜日

人の性格は育つ環境に大きく影響される

Twitterより





今日、娘が東京に戻ります。

私を理解できるただ一人の存在です。

一緒にいると、明るくなれます。

彼女がいなければ、私の人生は終わったままでした。


生まれてきてくれて、ほんとうにありがとう。


あなたのおかげで、実際の自分で生きていけるようになりました。

2017年9月25日月曜日

10月8日(日)安部塾薬院校集中講座「アレクサンダー・テクニーク完全読本の安部塾的解説第2弾」の御案内

昨日の安部塾薬院校集中講座「アレクサンダー・テクニーク完全読本の安部塾的解説第1弾」が大好評で、第2弾のリクエストが多数ありました。


なので、第2弾やります。

→ 10月8日(日) 安部塾薬院校集中講座「アレクサンダー・テクニーク完全読本の安部塾的解説第2弾」

アレクサンダー・テクニーク 完全教本


第1弾では、「抑制」と「指示」について解説しました。

「間」の大切さの解説は神解説だったと、自分でも思います。

身体を壊す人の動きには、「間」がありません。

第2弾では、「結果志向」「習慣の強制力」「体、心、感情の統一」を解説します。


第1弾の感動を超える感動が待っていますよ(笑)。


身体操作は、人生そのものを根底から楽で楽しくしていきます。

自分の身体を含めた、手が届く範囲の世界を深く愛する技術そのものだからです。

たくさんの人たちから「可愛くなったね」と愛されます。

継続参加者たちのしあわせそうな顔が、身体操作を学ぶことの素晴らしさをあらわしています。


しあわせに生きていけない身体操作なんて嘘だと思います。

刺激(出来事)に対する自分の思い(考え)を選択し直すのが身体操作の基本です。

これまでの間違った習慣を改めるのです。

身体の動きの改善は、人間関係の改善をもたらします。


身体操作は、愛の技術なのです。


御参加お待ちしております。





9月28日(木)が大阪集中講座のために、薬院校がお休みとなります。

なので、9月25日(月)の午後から、薬院校でレッスンをいたします。

13:30~ 塾長グループレッスン
15:30~ 塾生講座(リクエスト応答)
18:00~ 塾長グループレッスン
19:30~ 塾長グループレッスン
21:00~ 塾生講座(リクエスト応答)

御参加お待ちしております。

2017年9月24日日曜日

首が自由だと思えば、人生が楽になります。

薬院校集中講座 20170924

今日の薬院校集中講座も神回(笑)。

首が自由だと思うことの大切さを解説し倒しました。

大好評につき、10月に第2部を開催予定です。

明日、案内いたします。

困っている時に相手を助けない人ほど、相手が献身的に自分を助けることを欲求する。

シュウ




立派な愛を唱える人ほど、手が届く距離にいる人たちを愛していません。

人は、手が届く距離にいる人たちを愛することでしあわせでいることができます。

2017年9月23日土曜日

愛の修練~愛の可能性を信じる

神戸に向かっております。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム 鈴木晶訳より

愛というものは簡単に浸れるような感情ではない。 真の意味で人を愛するには、自分の人格を発達させ、それが生産的な方向に向くよう全力で努力しなければならない。

われわれが生きているこの社会では、愛する能力を身につけることは容易ではない。 実際、真に人を愛することのできる人は驚くほどに少ない。 しかし愛する能力を身につけるための仕事が困難だからといって、その努力を放棄してはならない。

人びとが愛を軽く見ているわけではない。 それどころか誰もが愛に飢えている。 ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。 それはなぜだろう。

愛について学ぶことはないと考える第一の理由は、たいていの人は愛の問題を、「愛する能力」の問題ではなく、「愛される」という問題として捉えているからだ。 つまり人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるかということなのだ。

愛について学ぶことはないと考える第二の理由は、愛の問題は「対象」の問題であって、「能力」の問題ではない、という思い込みである。 愛することは簡単だが、ふさわしい相手をみつけることはむずかしい、人びとはそんなふうに考えている。

愛について学ぶことはないと考える第三の理由は、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。 愛の技術を習得するには、理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。

人間は孤立することを最も恐れている。 孤立は強い不安を生む。 人間の最も強い欲求は、孤立を克服したいという欲求である。 人間はいつのどの時代でも、同じ一つの問題の解決に迫られている。 いかに孤立を克服するか、いかに他者との一体化を得るか、という問題である。

人間は孤立感から逃れるために、「祝祭的な興奮状態」「集団等への同調」「創造的な活動」といった方法をとるが、完全な答えは人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にある。 自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間の最も強い欲望である。

愛は人間のなかにある能動的な力である。 人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。 愛によって、人は孤独感や孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

愛においては二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。

静かに椅子にすわって自分自身に耳を傾けひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので「受動的」と言われる。 だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢はもっとも高度な活動である。 内面的な自由と独立がなければ実現できない魂の活動である。

愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。 そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。 愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。 たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

真に人を愛するには、その人の性格的な段階に達していなければならない。 この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとなんでも貯めこもうする欲求を克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

愛の能動的性質を示す基本的な要素に「配慮」がある 愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。 この積極的な配慮のないところに愛はない。 愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。

愛の基本的要素「責任」。 責任とは他の人間が何かを求めてきたときの私の対応である。 「責任がある」ということは、他人の要求に応じら応じる用意がある、という意味である。 愛する心をもつ人は求めに応じる。 おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

愛の基本的要素「尊敬」。 尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。 自分が独立していなければ人を尊敬することはできない。 自由であってはじめて人を尊敬できる。 「愛は自由の子」であり、けっして支配の子ではない。

愛の基本的要素「知」。 人を尊敬するにはその人のことを知らなければならない。 自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

他の人と融合したいという基本的な求は、「人間の秘密」を知りたいという人間的な欲求と密接にかかわっている。 秘密を知るための方法が一つある。ただし絶望的な方法ではある。 それは、他人を完全に力で抑えこむことである。 「秘密」を知るためのもう一つの方法が愛である。

愛とは能動的に相手の中へと入っていくことであり、その結合によって相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる。 融合において、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。 愛こそが他の存在を知る唯一の方法である。

人間を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と平行関係にある。 神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。

成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能というナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人のことである。

母親の愛は無条件の愛である。 母親に愛されるというすべての経験は統合され、私は愛されているという経験へと結晶する。 しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。 無条件であるだけに、どんなことをしても創りだすことはできない。

十歳くらいの年齢に達するまで、子どもにとって問題なのはもっぱら愛されること、つまりありのままの自分を愛されることだけだ。 やがて子どもはナルシシズムと自己中心主義によって築かれた孤独と隔離の独房から抜け出す。 愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。 成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。 未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

父親の愛は条件つきの愛である。 子どもを教育し、世界へつながる道を教える。 条件つきなので、父親の愛を受けるには資格がいる、つまり期待にこたえなかった場合にはその愛を失うということである。 父親の愛の性質からすると、服従こそが最大の美徳である。

やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母親であり父親であるような状態に達する。 成熟した人間は実際の母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像と父親像をつくりあげている。 母親的良心と父親的良心は矛盾するように見えるが、成熟した人間はその両方で人を愛する。

母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後に双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。 神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。

愛とは、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。 一人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。

誰かに「あなたを愛している」と言うことができるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。

兄弟愛とは、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊敬、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。 もし愛する能力がじゅうぶんに発達していたら、兄弟たちを愛さずにはいられない。 兄弟愛の底にあるのは、私たちは一つだという意識である。

すべての人間がもつ人間的な核は同一であり、それに比べたら、才能や知性や知識のちがいなど取るに足らない。 この同一感を体験するためには、表面から核まで踏みこむことが必要である。 この中心と中心との関係が「中心的関係」である。

自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

母性愛は子どもの生命と必要性に対する無条件の肯定である。 母性愛の一つの側面は、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。

母性愛のもう一つの側面は、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもに与えるような態度である。

母性愛の二つの側面は、聖書の象徴にも表現されている。 約束の地(大地はつねに母の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。 乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。 蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。

たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数で、そのためには母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。

人生にたいする母親の愛は、不安と同じく子どもに感染しやすい。 どちらも子どもの全人格に深刻な影響をおよぼす。 実際、子どもたちのなかに——いや大人たちのなかにさえ——「乳」だけを与えられた者と、「乳と蜜」を与えられた者とを見分けることができるくらいである。

母性愛の本質は子どもの成長を気づかうことであり、これはつまり子どもが自分から離れてゆくのを望むということである。 母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。

愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。

異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。 異性愛はその性質からして排他的であり、普遍的ではない。 またおそらくはもっとも誤解されやすい愛の形である。 愛は自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。

誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。 それは決意であり、決断であり、約束である。 もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。

愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。 一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。

自己愛。 私自身も他人と同じく私の愛の対象になりうる。 自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている。 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身をも愛している。

自己愛。 もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。 利己主義と自己愛とは、同じどころかまったく正反対である。 利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。 いや実際のところ彼は自分を憎んでいるのだ。

子どもをかまいすぎる母親は、意識の上では心から子どもを愛していると思いこんでいるが、実は深く抑圧された憎悪を抱いている。 彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているからだ。

西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。 現代の社会が必要としている人間は、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。

愛があっても対立は起きる。 二人の人間の間に起きる真の対立は決して破壊的ではない。 そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。 この「中心における経験」の中にしか人間の現実はない。

人間の生は「自分の中心における経験」の中にしかなく、従って愛の基盤もそこにしかない。 そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。 それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。

調和があるのか対立があるのかは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。 根本的な事実とは、二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し、自分自身と一体化することによって相手と一体化するということである。

愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力の強さである。 これが実ったところにのみ、愛が認められる。

どうしたら愛することができるのか。 愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。 目標への階段は自分の足で登っていかねばならない。 とはいえ習練を積むためには、規律、集中、忍耐、技術の習得に最高の関心を抱くことが必要である。

現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかに難しい。 集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。

一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

集中力を身につけるためには、くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ。 くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということである。

他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず相手の話を聞くということである。 集中するとは、今ここで全身で現在を生きることである。 自分に対して敏感にならなければ、集中力は身につかない。

重要なことは、変化に気づくことと、手近にある理屈に飛びついてそれを安易に合理化しないことである。

自分自身に対して敏感になるには、完成された健康な人間の精神というのがどういうものなのかを知らなければならない。 私たちは知識を教えるが、人間の成長にとって最も重要な教えを授けていない。 その教えは、人を愛することのできる成熟した人間でなければ決して授けることができない。

成熟した人生とはどんなものかという青写真を生き生きと保っていないと、私たちの文化的伝統は全面的に崩壊してしまうかもしれない。

客観性。 どんな種類の精神病者も客観的にものを見る能力が極端に欠如している。 狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。 愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるように心がけなければならない。

「信じる」ことの習練。 理にかなった信念とは自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信である。 信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特徴であり、ある特定の信条のことではない。 この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根ざしている。

理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自分自身の生産的な観察と思考に基づいた、他のいっさいから独立した確信に根ざしている。 他人を「信じる」ということは、その人の根本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。

同じ意味で私たちは自分自身を「信じる」。 私たちは、自分の中に一つの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。 この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えている。

自分自身を「信じている」者だけが他人に対して誠実になれる。 なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、従って自分が予想しているとおりに感じ行動するだろう」という確信を持てるからだ。 信念は人間が生きてゆくための前提条件の一つである。

愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。 つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。 その信念があるかどうかが教育と洗脳のちがいである。 他人を「信じる」ということをつきつめていけば、人類を「信じる」ということになる。 信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。

勇気。 信念をもつには勇気がいる。 勇気とはあえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。 愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。

信念と勇気の習練は、日常生活のごく些細なことから始まる。 第一歩は自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。

人は意識の上では愛されないことを恐れているが、本当は無意識の中で、愛することを恐れているのである。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全面的に自分を委ねることである。 愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。

愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢、それは能動性である。 能動とは、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。 愛は能動である。

現在のようなシステムのもとで人を愛することのできる人は、当然例外的な存在である。 人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。 人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない。

愛の発達を阻害するような社会は、人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、やがては滅びてしまう。 実際、愛について語ることは「説教」ではない。 その理由は簡単だ。 愛について語ることは、どんな人間の中にもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。

愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった信念なのである。

愛することが、自分で自分を救う道だと思います。

2017年9月21日木曜日

私に合わせなくていいですよ~勇気がないのは愛されたいから~自分を蔑視すると相手に憎しみを抱く~親の態度が子どもの性格に与える影響

山鹿灯籠浪漫・百華百彩 2014 0215

私はよく、「私に合わせなくていいですよ」と言います。

憎まれたくないからです。


他人を服従させようとすれば憎まれます。

なので、支配しようとしないのがいちばんだと考えています。

もちろん、私も服従なんてしません。

対等の関係(支配でも服従でもない状態)を目指しています。



最後に憎しみが残るなんて、惨めですからね。



具体的にどうしたらわからないという親御さんからのリクエストに応答します。

「サイモンズ式分類」というのがあります。

親の態度と子どもの性格の関連性を調べて、法則性を見いだして分類したものです。

■親の育児態度の主な4タイプ
・支配型
・服従型
・保護型
・拒否型
■これらのタイプを組み合わせた4タイプ
・支配×保護=過保護型
・保護×服従=甘やかし型
・拒否×服従=無視型
・支配×拒否=残忍・残酷型


■支配型

親が子どもを支配するような態度をとり、子どもは親の顔色をうかがうようになり、従順で服従的な態度を見せるようになります。
子どもは、自発的に自分で動くことができなくなり、消極的な性格に。

■服従型

親が子どもの顔色をうかがうような態度をとり、子どもの言いなりになります。欲しがるものを言われるままに買い与えたり、遊ばせたいだけ遊ばせたりします。
子どもは、人に従わない、無責任、乱暴をふるう、不注意などの性格に。

■保護型

親が必要以上に、子どもを守ろうという態度で接します。
子どもは危険に対して思慮深くなり、一方で親の保護から離れた場所に好奇心を見せることがあります。
常に守られているという安心感があり、感情が安定し、人に対して親切にすることができます。

■拒否型

親が子どもを拒否するような冷淡な態度を取り続けます。
子どもは親から拒否されることで、不安や劣等感にさいなまれやすく、神経質になります。
親の気をひこうとするあまり、落ち着きがなくなります。
反社会的な行動を起こして、親の注意を自分に引きつけておこうとしたり、親の真似をして冷淡なふるまったりします。

※対応
支配型なら服従型に態度を寄せていく
保護型なら拒否型に態度を寄せていく
支配と服従、保護と拒否のバランスをとる


■支配×保護=過保護型

親が子どもの世話を焼きすぎ、子どもに自発的な行動をさせにくくする。
子どもの依存心が強くなり、幼児的なふるまいが抜けなくなる。

■保護×服従=甘やかし型

子どもを甘やかすことで、自分の言うことは何でも通ると子どもが勘違いする。
自己中心で反抗的な態度になる。

■拒否×服従=無視型

子どもは、親が何を思っているのかわからない。
情緒不安定になる。

■支配×拒否=残忍・残酷型

親から逃げるために逃避的な性格を見せる。
不安で神経質な性格になる。

引用元:子どもの性格は、親の態度で決まるって本当? 「サイモンズ式分類」


こちらの記事もぜひ → 親の態度が子供の性格を決める⁉ サイモンズ式分類が分ける4つの親


指導者的立場にある人も、知っておいて損はないと思います。

筋トレ効果を得るための呼吸について~美しい身体をつくる

懐かしの1枚~アメノタヂカラオの岩戸開きのイメージです。

2012 佐賀県大和町 與止日女神社 岩戸開き 

この頃は、背筋を鍛えあげていました(体重80kg超えてました)。

実用上、腕は鍛え過ぎないのがポリシーでした。


さっきの記事に対する、みどり姐さんとのやりとり。

FBのやりとり

ってことで、筋トレの効果をあげるための呼吸の基礎知識です。


■吸う

伸張性収縮(エキセントリック)・遠心性
~ネガティブワーク(筋肉が伸びながら出力)


■吐く

短縮性収縮(コンセントリック)・求心性
~ポジティブワーク(筋肉が縮みながら出力)


対象となる筋肉の起始・停止が近づくときに息を吐き遠ざかるときに息を吸います

筋肉を伸び縮みさせない姿勢保持状態では、自然な呼吸を心がけます。


この基本原則をきちんと守ると、効率的に筋肉を発達させることができます。




ちなみに、安部塾で行われるすべての動きにおいて、この基本原則が適用されています。

応用として、伸ばしたい筋肉があるときは、拮抗筋を縮めながら吐きます(相反抑制)。


自律神経的には、

■吸う(横隔膜緊張)

交感神経が優位・活性化 → 闘争・逃走モード・りきむ

■吐く(横隔膜弛緩)

副交感神経が優位・沈静化 → 休息モード・ゆるむ


交感神経と副交感神経
交感神経亢進と副交感神経亢進


動き的には、

■吸う  伸展(反る)

■吐く  屈曲(丸まる)

ということになります。

ただし、動きの場合は、応用で逆にすることがよくあります。


呼吸が間違うとOUTです。

正しい知識を学びましょう。


9月23日(土)の神戸集中講座でも、呼吸の解説をします。

ぜひ、ご参加ください。

2017年9月20日水曜日

景勝地でヨガのポーズをしたがる残念なナルシシシスト

2013年くらいまでの私です(笑)。

2013 筑紫耶馬渓
2013 筑紫耶馬渓
2013 筑紫耶馬渓

ヨガの目的は、エゴイズムとナルシシズムの克服です。

ポーズのひけらかしは、優越コンプレックスそのものです。

SNSに、当時の私のような残念な方々がいて、微笑ましく思います。

厨二病みたいなものなので、そのうち目が覚めるでしょう。


私が写真をアップしていたのは、人を集めたかったのが主な理由です。

で、集まったかというと、集まるには集まったのですが、みんなナルシシストでした。

まあ、それはそうです。

類は友を呼びますから。



ってことです。


薬院校を開校するのを契機に、誇示(得意になって見せること)することをやめました。

アピールしても、ナルシシストにしか届きませんから。

代わりに、愛の技術を学び、実践することにしました。

やさしい人になろうとしたのです。


結果は、心身ともに安定しています。

大好きな人たちとの信頼関係を満喫しています。


なので、塾生のみんなには、「誇示をしないこと」を奨めています。

ポーズだけでなく、資格や認定などのアピールも控えるように言っています。

同じ理由で、お得感を出したりとか、キャンペーンをするのもやめるように指導しています。

「質の悪い人」を引き寄せてしまうからです。




質が悪い人は、「ありのままのあなたには価値がない」と言います。

上の写真と同じ2013年に発刊されたこの本。

モラル・ハラスメントの心理構造 ~見せかけの愛で他人を苦しめる人


 美徳を振り回して周囲を傷つける
 感情的恐喝で人を騙す人は、サディストである…中略・・・フロムは、「サディストは、破壊したり、支配したりしようとする自分の願望に気が付いていない」と言うが、同じように感情的恐喝をする人は、自分の恐ろしさに気が付いていない。
 それは彼らが一般市民だからである。時には官僚で事務次官にまで上り詰める人だからである。たとえ権力の階段を上り詰めようと、感情的恐喝をする人は人間としてもっとも質の悪い人であり、もっとも「品格」がない人である。P131

加害者には人を愛する能力がないと知れ。P224

引用ここまで


母親が自己愛人間の場合、子どもはモラルハラスメント被害者となります。

本来開花するはずの個性のある性格が壊され、後遺症だらけのボロボロな状態になるのです。


質の悪い人は、

「あなたさえしあわせなら、私はそれでいい」と言います。

しかし心の底には、

「私さえしあわせなら、あなたはどうなってもいい」という敵意があります。


質の悪い人たちを引き寄せたくないなら、誇示はしない方がいいと思います。

ナルシシズムの泥沼にはまると大変ですから。


これからIBUKIの教本(フォトブック)をつくるにあたり、いろいろ気をつけようと思います。